昭和14年5月その頃は2年前に始まった日支事変が次第に拡大し、日本は国をあげて戦時体制を整えていた。当時富士・富士宮地区では数多くのタクシー会社があったが、その大部分は1~数輌程度の規模であった。そしてタクシー業界に限らずあらゆる業界が戦時体制にそうよう企業合同を政府より命令され、その命令に従ってバス・タクシー業界も時の流れと共に統一の方向に進んで行った。
初代米山芳雄は、昭和の初めよりタクシー業を営んでいた。企業合同の発令された頃の米山タクシーの規模は富士2ヶ所・吉原1ヶ所の営業所を持ち、併せて富士駅より田子の浦方面に至るバス路線を持っていた。使用する車両は現在とは全く逆にタクシー車輌は全て大型(外車)であり、バスは20人位の収容力しかない小さなものであった。
企業合同が始まった時、初代社長は近在の業者を吸収合併し昭和14年5月26日岳南タクシー株式会社を設立した。営業所富士2ヶ所・吉原2ヶ所・鈴川1ヶ所・富士宮1ヶ所・岩渕2ヶ所であった。
タクシー業界の統合整備と共にバス業界の統合も進んでおり、米山タクシーの富士駅より田子の浦方面に至るバス路線は富士自動車(後の富士山麓電鉄)に提供し、当社はタクシー業に専念して押し寄せる重大時局を乗り切るべき体制を整えていった・・・。
押し寄せる重大時局を乗り越えるべく会社の設立当時の苦労は筆舌につくせない事の連続であった。昭和16年は大東亜戦争が開始された。民間所有の車輌は次から次へと徴発されていった。今日一台今日一台と車両は段々減っていく。
日毎に車と人員が少なくなっていく。車のある限り燃料の続く限り営業を続けていった。燃料はとうの昔にガソリンから木炭となった。
やがて刀折れ矢尽きる時が来た。車両が1両残らずなくなってしまったのだ。
戦前戦中の状況は会社設立と同時に時代の波に洗われてじり貧状態に落ちる甚だ不本意な事柄の連続であった。
そして終戦直後、焼け残った車・再整備の車7輌を集めて富士・吉原に新生の声を上げた。